カテゴリー「ネパール」の31件の記事

2016年4月22日 (金)

ネパール紀行2016年(13)4月6日、7日、8日、Kathmandu-Kuala Lumpur-Chitose

ネパール紀行2016年(13)4月6日、7日、8日、Kathmandu-Kuala Lumpur-Chitose
0550 起床。 体の痛み、膝の痛みはあるけれども、和らいでいるように感じる。
0740 伏見兄、カトマンズ大学へ。
1000 Naresh夫人と息子さんが下さり物を持って送りに来て下さる。お心遣いにいたみいる。2、3年後にまた、というお言葉に心が動きます。お心が力を持っていて思いが伝わってきます。
1130 空港へ。
1515 カトマンズ空港離陸
1700 涼しくなったので毛布をと頼むとレンタルという。
2215 Kuala Lumpur着
 幾つかのこと。機内持ちこみは7kgまで。大きさも決まっています。15kgを越えると1kgあたりべらぼうな追加料金となります。一番良いのは機内持ち込み可の7kgですべての荷物を押さえること。次回から年相応にある程度余裕のある旅にしたいと思います。
ネパールルピーをドルに換える時、ドルをルピーに換えた時の黄色の証明書が必要でした。
 カトマンズからKLIA(Kula Lumpur International Airport)に着くと途端にジャズがスピーカーから流れてきて、アメリカナイズされていると感じます。千歳からKLIAについてときは、黒いベールとゆっくりとした歩き方に、保守的な文化を感じたのですが。ヒマラヤの南、ヒンズー文化圏のネパールと比べると、ここKLIAのスピーカーは、アメリカの物質主義を感じます。

4月7日(木)Kuala Lumpur-4月8日(金)Chitose
2315 Kuala Lumpur発
4月8日0820 千歳着
 やはり日本はとんでもなく平和で安心で穏やかな国です。これじゃ平和ボケするのも無理ありません。
 こんな平和が長く続くわけありません。すでに戦争が目の前に来ています。
もし戦争を避けうるとすれば、相手国が恐れをなす、気迫、軍事力、外交力が必須でが、さて。
 ぎりぎりに生命感覚を鍛える筋トレ、歴史、外交についての徹底的な現実認識ですか。
 ネパールの若者たちがもっている逞しさ、迫力。
 道徳性も必要です。
 肉体的物質的であることと宗教的道徳的であることが大事と思います。
 73歳の爺さん、これからの8年、ご苦労さん。
 無理しなさんな、の言葉も聞くべきですが、しかし、バランスを考えつつ、ある程度無理しなければならんでしょう。平和のために。
 あんなにくたびれ果てていましたのに、2週間経つとだんだんつらさを忘れてきています。
 そうですね。決して楽観的にはならないのですが、「思い」は実現するです。
・感謝すること。
・幸せであると決意します。
・笑います。笑い、ユーモアを大切にします。喜びます。例え悲観的な状況の時でも。そういうときこそ笑い楽しみます。
・中村天風さんを思い出し、積極的を決意します。

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2016年4月21日 (木)

ネパール紀行2016年(12)4月5日(火)晴 Kathmandu


0630 起床。朝になり体が少し楽になる。
0830 朝食。くつろいで過ごす。Sun Rise Cottageの入り口に大きなブーゲンビリアが咲いている。Arun氏とNaresh氏にカトマンズに帰ってきたことの報告と先日の御礼をお伝えする。伏見氏は夕方5時過ぎに来られるとのこと。
 体中痛んでいる。両膝も痛んでいる。
 以前のすべきことをしなかったことを思い出す
 昼前、市内散策に出かける。
 カトマンズは大都会、南国でもある。
 ところどころ市内に昨年の地震の後がありますが、大半のビルは倒壊していません。私の知り合いの方の家も、ほとんど問題は無かったようです。倒壊した建物は古い寺院や古い民家が多く、どうも大半の鉄筋入りのビルは倒壊を免れて、古い煉瓦造りの家が倒壊したと言うことです。テレビが世界に向けて倒壊したビルのみを撮すものだから大変なように見えたところがあるようです。

 ネパール紀行書いている間に4月14日、16日に熊本地震が起こり、50名以上の死者行方不明者が出ています。

 中国企業の店が増えています。日本の企業はあまり見えません。国力がそのまま現れ、観光客にも表れているのでしょう。

 明日、ネパールを発ちます。
 既に触れましたが、今回のネパール行は非常に強い印象がありました。

 まず、自分のこととして、疲れ切って足が動かなくなったこと、4,000m以上の高度によるものかもしれませんが、73歳の体力低下を感じざるをえませんでした。

 ついで、日本の経済力の低下を見ると同時に、日本の若者をあまり見なかったことに、あまり肯定的と言えない印象を感じました。欧米の若者も壮年者も多く見かけたのにです。
 常々感じていたことをさらに強く感じてしまった旅でした。
 戦後を思わざるを得ません。決定的なことは自主独立の精神がないことです。GHQのいいなりの憲法を作り、教育を作り、マスメディアの情報統制を自ら作り、国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」の2016年、世界各国の報道自由度ランキングでは韓国の70位よりさらに低い72位です。歴史の抹殺を自ら修正せず。
 
 実はわが人生の終わりの生き方と滅びた日本でのこれからの生き方と重なります。自分の生き方を確認し続けます。
・これからの生き方への決意確認
・自主独立の精神と生活(大変だ)
・反省の繰り返し(これは趣味ですから)
・生命感覚の鍛え直し。1)筋トレ(脚・腕・腹筋・背筋)、2)呼吸トレ、3)食トレ(空腹・小食・小肉小糖小酒・小脂肪・野菜)、4)過睡眠控え、5)疲労トレ
・自分と日本の歴史の勉強と反省、神道ほかの勉強。
(写真はカトマンズ、Chetrapathi)

 昨日4月20日水曜日の愛山の朝は、とんとんと屋根を雪が打っている音がして、カーテンを開けると泡雪が積もっていました。
 体力2週間経って、やっと体力、気力が回復しました。
 無理して十勝合宿を計画していたのですが、諸事情で中止しました。

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2016年4月20日 (水)

ネパール紀行2016年(11)4月4日(月)晴 Besisahar(760m) -Kathmandu

ネパール紀行2016年(11)4月4日(月)晴 Besisahar(760m) -Kat...

0615 起床               
0800 Hotel Gangapurnaかバイクに乗せてカトマンズ行きのバス乗り場まで送ってくれる。
 カトマンズへの道、トラクターが砂利や鉄筋などの建材を積んだ荷台を引っ張って走り回っている。トラクターは耕作用ではなくトラック代わりに使われている。素晴らしい建築ぶり、経済発展ぶりのように見えます。
  大型のバスが走る道、舗装した道です。カトマンズまで450Rsです。助手の人が一人一人から運賃を集めています。
0930 バスを止めて小便時間。
1030 大きな町
1109 待ってて持って行ってもらう荷物があるからと二人して取りに行っている。
1200 昼食ストップ。
1420 トイレストップ。1句。
 「まるでホコリにまみれた    ブーゲンビリアの花のように」
 となりに座った女の子が私が手帳に書いている文字を見ている。
 Koma氏の丁寧な字を見習い、ネパールの女の子にも恥ずかしくないような字を書くように。
1730 カトマンズ、Chetrapathi近くのバス停で下車。
 すぐタクシーが来たので、Sun Rise Cottage知ってるかと聞くと知っている、500Rsというので乗る。どうも場所を知らないらしいので電話番号を教えると、スマホで電話して聞いている。着いてから、プラスを欲しいというので、知っているはずが知らなかったのであげないというと、それ以上求めない。
1800 Cottage 着。日本人と思える方がいらっしゃる。長く住んでいる気配。軽くシャワーを浴びてでかける。50年前にはざわざわいた日本の若者にほとんど会わない。お茶、ハーブ屋さんに入って話すと,この頃中国人、韓国人ばかりで日本人がいない、経済的不況だろうけど寂しい、などという。別の土産物屋に入ると、この写真を撮ったのは私です、このポカラの写真集も日本人と私たちの撮った写真集ですと見せてくれる。1,000Rsに負けてあげるというので、購入。この辺にネパール食堂ないときくと、Triveni Restaurantを教えてくれる。そこへ入るといかにも気に入りの感じの昔風の食堂で、日本人の主みたいな人が新聞を読んでいる。後から世界旅行している青年と長野で山小屋の手伝いや、農業法人を手伝っている方にお会いする。やっと、らしい日本人に会えた感じでうれしくなる。このレストランは日本のネパール旅行か何かに紹介されて有名なところだそうです。
 カトマンズに帰り着いたうれしさでネパール瓶ビールを一本頼み、グビリと一気のみ。
 就寝後、夜中11時頃、ビールのアルコールによると思える心臓への打撃感があって、苦しい。何かから殺されそうになって必死で逃げる、誰かに追いつこうと必死で追いかけている夢、アルコールがそれほど心臓に負担を強いることに驚く。夜中の3時には少し楽になった感じがする。全身の筋肉痛も続いている。朝なり穏やかになる。
写真は50年前に一室をグループでお借りしていた、ガネッシュ・マン・シン氏の邸宅。立派なお家です。

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2016年4月19日 (火)

ネパール紀行2016年(10)4月3日(日)晴 Tilche(2,300m)-Besisahar(760m)

ネパール紀行2016年(10)4月3日(日)晴 Tilche(2,300m)-Besisahar(760m)

0600 起床
 今日のお祭りは、Shiva神を祀る儀式で、お二人のブラーマンの方は7時過ぎから、お祭り用の小さな物を作っていらっしゃいます。木綿糸で灯火の芯を作ったり、お供え物を載せる器を朴の葉のような大きな葉で作ったり、女性方はお供えの食べ物を作っています。9時頃から始めるとのこと。
 Komal氏とBhagavad-Gitaの話をしているうちに、彼が10年前からよんでいる英語訳本Bhagavad-Gita As it is という本を下さるという。いかにも繰り返し読み続けられた厚い本を綺麗な布に包んでそれにラリグラスの花びらと良い匂いのする小さな白い花を乗せて下さる。なんと心のこもったオシャレな下さりものでしょう。私からも前日に用意してあったささやかな包み物を彼の健康のためにと差し上げました。
0850 Tilche発。吊り橋まで送って下さる。しっかりとハグしあう。
 渡り終えて馬に乗る。
1010 Toche(1900m)着。50年前はThonjeと呼んでいましたが今の地図にはTocheとあります。
 50年前にThonjeでお世話になった家にお寄りすると、姉さんもう80を越えていると思いますがお元気で、50年前のことは忘れたとおっしゃっていました。体に少し不自由のある息子さんも下の娘さんもお元気でいらっしゃいました。2番目の息子さんはカトマンズで仕事、末の息子さんはここで先生をして、家族の面倒を見ていらっしゃるとのことでした。気になっていた方々にお会い出来てホッとしました。
1030 Dharapani着。11時半に、Besisaharへゆくジープが来るとTilcheから馬を引いてきてくれた若者がスマホで確かめてくれる。6年前にはあまり感じなかったのですが、今やどんな山奥でもスマホは必須ツールです。届きにくい地域もあるようですが。古代人の私が現代のネパールに紛れ込んでしまったようでした。
1130 Dharapani発。
1250 Ghattekhlagaon(1290m)、Nepalikitchen Guest Houseで昼食。女主人が「目、ほっぺた」と冗談を言ったようだった。Talの急斜面も登りの夕暮れ時ほど怖くは無かった。でも、次回はできれば時間を取って、ポーターも頼んで歩きたいものだと思いました。余裕も出てきて、多くの花々とみることができました。白や黄のテッポウユリのような花、でもジープから見る花は誇りをかむってほこりっぽいです。このジープ道路もそうですし、Khudiの上に大きな水力発電用のダムを中国が建設していました。

1630 Besi Shahar(760m)着。ジープの運転手さんが一緒にGangapurna Hotelに泊まろうという。シングルがなく、ツウィンで600Rsというので、同室でということにする。一緒にぶらぶら出かける。彼の知り合いかと思うグループでたむろしていると、男が一人、お前はどこから来たの?日本人、あんたは?カンバ。中へ入れという。入りたかったけれど、一緒の運転手さんが行こうというので中へ入らず。
 見ていると青いアコースティックギターを持った若者がいる。寄ってゆくと、ビートルズ?知ってる、ジミー・ヘンドリックス、クランプトンとか言って、弾きながら歌ってくれる。母親と思える店の婦人が、小さい時から好きなんだという。また「Tears in Heaven」をというと歌ってくれる。こうやって弾きながら歌える曲を何曲か持ちたいと思う。
 シャワーをゆっくり浴び、3階ベランダでミルクティをいただきながらくつろぐ。
 近くの竹林の一群から猛烈な雀の鳴き声が聞こえる。そういえば、スズメのお宿はこのように猛烈なさえずりでは無かったか。今、我が家の近くにこれほどのスズメのさえずりはない。日本ミツバチが消えた。昆虫が消えた。スズメも消えざるを得ない。我が国では農薬なしの農業は成り立たない。昆虫が消え、スズメが消えざるをえない。もしかすると人間の体も消えざるを得ないのかもしれない。Manangの畑も、Tilcheの畑も、Besi Shaharの畑にも堆肥が置かれている。多分農薬は使われていないのだろう。若者の意欲、逞しさと関係しているのではないかと想像する。ネパールの友人、若者たちの強烈に逞しい表情・雰囲気と、不登校をおこす日本の子どもたち、アンナプルナトレッキングに全く見ない日本の若者。
 ネパールのスズメの逞しさとネパールの若者の逞しさ、日本のスズメと日本の子どもたち、変な比較ですが、今回のネパール行の強烈な印象なのです。
 日本と言ってますが、実は自分の姿、後は死ぬばかりという私自身の姿を言っているに過ぎないのかもしれません。どちらにしろ私も日本も後は死ぬばかり、という感じなのです。本当かどうか。悲観主義の私個人の思いに過ぎないかもしれません。
 とすると、これからの日本は、私自身のこれからの生き方と重なるといいましょう。さあ、どうする。おとなしく気力をなくして滅びを待つか。日本の滅びは私流にいえばすでに決まったこと、オワ、です。
 奇しくも今年から私の第3期第2ステージと名付けたのですが、これからの何年か、8年ということにしますが、残りの70歳代の8年を、あがきあがき、「生命感覚」を再度鍛え直す時期とします。帰国後10日経って、気力が回復してきました。
 生命感覚の鍛え直しです。
 1)筋トレ(脚・腕・腹筋・背筋)、2)呼吸トレ、3)食トレ(空腹・小食・小肉小糖小酒・小脂肪・野菜)、4)過睡眠控え、5)疲労トレ
 結局、今回のTilicho Talへの旅は、自分の第3期第2ステージに向けての旅であり、「生命感覚育成への旅」でありました。さらに音楽を楽しむ旅でもあったと言いたいです。それと疲れ切っためですか、素晴らしい美女を垣間見た旅ということにしましょう。
写真は、下りに乗ったジープです。地図にこのあたりの道のことを Jeepable Gravel Road(ジープでしか走れない小石・礫の道)と書いてあります。

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2016年4月18日 (月)

ネパール紀行2016年(9)4月2日(土)晴 Manang(3,540m)-Tilche(2,300m)

写真はネパール国花「シャクナゲ」
0300 汗と胸の圧迫感で目覚める。トイレへ行き、足の痛みに生きている実感がある。心臓の圧迫感というか、これまでに無い心臓の疲れ感があり、よくは知らない狭心症とか心筋梗塞とかの心配をしてしまう。時間が経つにつれて落ち着いてくる。
0600 起床
0718 朝食
0740 Manang発。
 Manangは52年前に政治情勢で入域出来なかったところです。当時、川喜田二郎氏による人類学的調査報告に、Gurungには北のGurungと南のGurungと違っているという記述があり、両方のGurungの文化に触れたいと思ったのですが果たせませんでした。確かに、ManangのGurungはチベット文化と融合し、チベット仏教の色彩が強くみえました。当時からManangの若い女性のグループがチベットの服装で東南アジアの方向目指しいて旅していました。お昼にイラクサのお汁で食べていました。
 今回Manangに道行く人を見て、女性にはっと思うほどの色白で西域の風貌と思える美人を何人か見ました。
 Manangでは結婚による交流もMarshandi下流域の方とはあまり無いようで、チベット文化圏との交流の方が深そうでした。
1045 Chameの少し下流Koto(2600m)着。下るにつれスモッグがひどくなる。店の子どもがスマホでゲームを遊びつつ、昼前の食事をしていて、ご飯とチキンカレーでしておいしそうでしたので以降何回かチキンカレーを注文しておいしかったです。
1220 Dharapani着。Dharapaniまでと言ったつもりが遙か下流のBhulbhuleの地名を言ったかもしれません。3,500Rsで手を打ったつもりが、Dharapaniで下りようとすると、ここが下りるところではないという。もっと下まで行くと思っていたようで、3,000Rsだすと、それでいいようなので、そのままにしました。昼食を頼み、土地の人にTilcheまで荷物を運んでくれる人はいないか聞くと、いくら出す、と聞いてくるので、いくら?と聞くと、2,000Rsという。1,500Rsならだすというと、いいよ、探してくると言う。とにかく疲れ切っていました。
1330 荷物を持って貰ってDharapani発。荷物なしですが歩いてTilcheまで行けました。やはり頭痛は無かったものの、4,000m以上という高度障害で足が動かなくなったと思えます。馬も頼めたようですが、遠慮しました。

1440 Tilche着。Komal氏とご家族にお会いし、我が家に帰り着いたような安心感がありました。
 明日、村あげてするShiva神のお祭りなので、Besisaharから16km離れた村から、ブラーマンの祭司の方が二人来てらっしゃる。教師をしていらっしゃるそうです。不登校問題を話してみましたが、あまり分かってもらえませんでした。親の問題で学校に子どもをやらせないことの問題の方が大きいようでした。私の言葉不足でうまく説明出来なかったと思います。また、なぜ学校へ行けないのか分かりづらいでしょう。
 お菓子用の大きなドーナッツを揚げてくれる。
 Tilcheへ帰り着けてほっとしましたが、しかし、Dharapaniからのジープの確保が不確かなので、次の日にカトマンズに向かうことにしました。ゆっくりとKomal氏と話したいところでしたが、ジープの確保のことと、村のお祭りでもありましたので。
 自分自身の性癖として、日本社会を見る目は悲観的です。学生時代にエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を読んだ時から、社会はこのように動いている、カタストロフィに向かっているという思いは変わりません。というよりも10年以上前から、日本がカタストロフィ向かっているではなく、「終わった」と過去形で言うようにしています。
 今回、Manangへの旅で日本人トレッカーに会わなかったことについて、日本の若者が体に汗するトレッキングを避けている、肉体的苦労を避けていることが国際的に明らかにされたと確信したことです。すなわち、生命感覚がますます鈍くなっている、生きる逞しさがなくなった、これが滅びた姿だということです。日本の教育、家庭教育、地域教育、学校教育の終わった姿だということです。
 ManangからTilicho Lakeへの3日の旅で、私の体は疲れ切り、生命感覚をぎりぎりにまで使い、この生命感覚を鍛え直すこと、これが滅びの道を食い止める道だと思った次第です。これまた、至難の業なので、滅びは免れ得ないでしょう。
 もう一つ感じたことはKomal氏との話からです。氏はヒンズー教徒として生活の中に祈りがあります。「マハーバーラタ」「バガヴァト・ギータ」があります。宗教的生活と日常生活における「生命感覚」の活発な活動がつながっているように思いました。対極にあるのが「物質主義」です。「安楽」の追求です。
 
 次の朝、馬で送って下さるとのことで、有り難くお願いすることとしました。

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2016年4月17日 (日)

ネパール紀行2016年(8)4月1日(金)晴 Tilicho Base Camp(4150m)-Manang(3540m)。

0520 起床。
0700 ほんの少し歩いてみただけでひどい疲れを覚える。今日はとても荷物をもってManangまで下りられないと判断し、馬を雇えるかどうか聞いてみる。電話で兄貴に聞いてみると受付の姉さんが電話で誰かと話して、馬は昼頃来るという。
1230 馬2頭と馬丁が下からやってきた。
 荷物用に5,000Rs、私人間用に7,000Rs、合計12,000Rsといったように思いますが、12,000は高いと難色を示すと、合計10,000Rsにすると言う。歩く自信もないので頼むことにする。会話は相当曖昧にしかしていません。
1245 Tilicho Base Camp(4150m)を馬に乗って出発。
 あの急なガレ場を馬で下ることに怖さを感じない訳ではありませんでしたが、疲れてそんな心配をしている余裕がありません。
 だんだん気がついてきたことは、鞍はあって敷物は尻の下のあるのですが、鐙がついていないので、尻が時間とともに痛くなってきます。
1525 下のBluesheep Guest Houseの事務室で馬代10,000Rsを支払う。この兄さんが馬の持ち主で、Tilicho Base Campの姉さんが電話した相手だったようです。
1640 下の村で鐙をつけてくれてやっと尻の痛みから解放されました。

1815 Manang入り口着。ここで馬をおります。町の中まで馬は入れないそうです。歩いてYeti Hotelへ。ManangからTilicho Lake(途中まで)の往復3日間は非常に苦しかった。足が動かなくなったのは、主として高度障害で、酸素供給が足の筋肉に行かなかったのだと思います。帰りは帰りで、強烈な尻の痛みでした。
 シュタイナーの12感覚のうちの「生命感覚」の中心感覚は「痛み」と言うべきでしょう。「飢え」を生命感覚の主要な感覚と思ってますが、痛みが優先しますい。今回のManangトレッキングは「生命感覚」の旅、「痛みの旅」と言いたいです。とにかく、痛く苦しかった。次の日にジープでManangからDharapaniまで走った際も、ジープの座席で跳ね飛ばされながら、全身の筋肉と尻が痛んでいました。
 Marsyandi川沿いのBesisaharからManangの間アンナプルナ周回トレッキングで、日本人に全く会いませんでした。多分100組の外人に会ったり、ジープから見たと思います。大半が白人で10%くらいが中国人と韓国人のようでした。6年前からさらに日本人が減っています。経済力の反映ではありましょうが、日本の若者に肉体的苦痛を避ける傾向もあると思います。ますます生命感覚の鈍化、逞しさの低下につながります。
 Yeti Hotelで夕食のとき向かい合って座った中国系インドネシア人と米国人の年配のご夫婦と最初の挨拶、ネパールは何回目?の話しの次は、音楽は何が好きですかの質問です。旦那はJazzをベースギターでやってるよといい、私はこの年でピアノを習い始めて1年というと、実はとご婦人、ピアノをやりたいとピアノを買おうとして高くて躊躇してまだ買っていない、旦那さんは買えば良いのにと勧めているのにまだ買えないでいるという。ミッドサマーコンサートのことも含め、ちょっとほら吹きすぎのようにも思うのですが、音楽は国際語ですね。

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2016年4月16日 (土)

ネパール紀行2016年(7)3月31日(木)晴 Tilicho Base Camp(4150m)-4570m地点。

4月16日白鳥が来ています。
帰国後一週間経ち、疲労が回復してきました。昨日は高等養護学校の方々と泳いできました。が、まだ十分回復していません。
ネパール紀行を続けます。

ネパール紀行2016年(7)3月31日(木)晴 Tilicho Base Camp(4150m)-4570m地点。
0510 起床。この体力ではTilicho Lakeまでいけない可能性が強いけれども、行けるところまで行こうと出発しました。
0745 Tilicho Base Camp(4150m)発。
0845 4,290m地点で休憩。1時間140m、通常の登行スピードの半分以下しか登れません。
1000 4,440m
1145 4,540m 
1205 4,570m 今朝降った雪は融けています。Tilicho Lakeへの尾根をあえぎあえぎ登り、ここを限界として引き返すことにしました。足の筋肉の問題なら、頑張れると思うのですが、4000m以上という高度の問題があるのでしょう。足が動きません。初めての経験でした。しかし、アンナプルナ一周トレッキングでは若い女性たちを含めて5,600mのThorung 峠を越えて行くのですから、73歳の体力低下も否めません。
1600 Tilicho Base Camp(4,150m)着
 若い女性がMilk Teaを持ってきてくれ、昨日に続いてこんなにいたわれてしまいます。確かに足が動きません。アイルランドの方で、すぐ音楽の話しになり、エンヤやケルティックウーマンの話になります。
 水の大切さも教えてくれます。毎日少なくとも水4リットルは飲まなければならないと。朝食に1リットル、ハイキングに1リットル、昼食に1リットル、夕食に1リットルと。また、彼女たちストレッチングもまめにやっています。トレッキング慣れしているように思いました。
 部屋は確保できるものと、不必要な少しの荷物を部屋に置いていったのですが、客が増えて、二人寝室は別の人たちに貸したようで、居間でみんなと寝ることになりました。

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2016年4月15日 (金)

ネパール紀行2016年(6)3月30日(水)晴 Manang(3540m)-Tilicho Base Camp

ネパール紀行2016年(6)3月30日(水)晴 Manang(3540m)-Tilicho Base

Camp
0500 起床 0625 朝食(ダルバート)
0715 Manang Yeti Hotel発
0820 Thorung Khola の吊り橋を渡る
0940 Khangsar
1130 Hotel Bluesheep。オートバイが人を乗せて上がっていきます。
1235 上手のHotel Bluesheep。上手から馬が2頭下ってきました。
1400 急なガレ場。下の方から見るととんでもない急なガレ場で、いったいあの道を行けるのだろうかと非常に恐ろしくなりました。遠くから見ると45度の急斜面と見えましたが、35度くらいかもしれません。礫の斜面でときどき小石が落下していきます。下り道で馬丁さんの話しですと先日、大きめの石の崩落があり、3人ほど人が亡くなったそうです。でも女性も結構来ているのです。
1450 Landslideの標識。
1610 Tilicho Base Camp(4150m)着。ヒラヒラになりつんのめりながら、ゲストハウスに着く。椅子にへたり込むと中国人の若者がミルクティを持ってきてくれ、生き返る思いで頂きました。
 ストーブの近くに客たちが集まります。なんとかここにたどり着けた喜びで、3人ほどの若い娘さんたちに歌おうと誘いましたが、乗ってきません。国を聞くと、スペイン、アラブかどこか、イスラエルといいます。じゃ、シャロームしっている?とイスラエル語?で歌ってみせると知っているという。じゃ3部輪唱やろうと歌い始めました。少し合い始めたところで頼んであった夕食が来て、中断、食べ終わって再開しましたが、乗らず、中止となりました。疲れ切っていたからでしょうか、アラブ風の女性は王女のような美しさでしたし、スペイン女性も素晴らしい美女でした。明日は、Tilicho湖へ行くとのこと。
 中国の若者とは、「聖書の暗号」の話しを仕掛けましたが、全くご存じなく、話は進みませんでした。一人トレッキングは外国人の話し相手には困りません。が自分の英会話力が足りなくて、深まらないのが残念です。
 実は明日は私の体は動かないだろうから休んでいるつもりでした。明日の様子を見て決めることにします。

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2016年4月14日 (木)

4月14日ネパール紀行2016年3月28日Tilche-Chame29日Manang

ネパール紀行2016年3月28日(月)晴れ・曇り Tilche-Dharapani-Chame
0310 昨日は午後からずっと雨。夜中Komal氏のApple Hotelにて目が醒めトイレへ。真っ暗闇。シュタイナー12感覚の「生命感覚」は真っ暗闇の中でより敏感になるように思う。
0700 母屋へ。娘さん(以前の)がたが大きな声で語らっている。Larkya峠にはホテルが一つしか無いので、トレッカーはそこしか泊まるところがない。だからサービスはあまりよくないらしい、とかロンドンから里帰りしている末娘さんが英国の人は自分たちが一番と思っている、アメリカの方が経済的にでかくなっているのだけれど、などという話しをおおいに楽しんで話している。
 Komal氏の家は国際的で、彼自身国会議員として長く勤めていらっしゃり、中国、香港にも行ったことがあるし、下の妹さんのご主人は長くユニセフでスーダンに勤めていたし、一番下の妹さんはロンドン在だし、息子さんたちも国内において国際的な企業、組織で勤務していらっしゃいます。
 彼自身が敬虔なヒンズー教徒で朝夕の祈りの生活をし、経典の勉強もよくされています。ジープがDharapaniからManangまで通っていて、物流は多くなり、小さな発電所できて電気も来ていますが、基本的生活はそれほど変わってはいないように感じます。
 ジープでマルシャンディ川を登って怖かったこと、夜中の真っ暗闇の感覚などで、今回のネパール行のキーワードは「生命感覚」と感じ始めていますが、生命感覚とつながって宗教的生活、心霊的存在との馴染みをKomal氏の生活から感じます。
0800 Tilche発。下の息子さんと会社の同僚2名をDharapaniに迎え、合わせて私を馬に乗せてDharapaniまで送って下さるためKomal氏の馬3頭とともにTilcheを出発。
0900 Dharapani着。下の息子さんとカナダ人男性、ニュージーランド人女性と挨拶。Bhimdanに行き計画とのこと。2日前にマナンへ行くジープはあるようなことを言っていた運転手がいたが、状況、都合によって変わる。それにべらぼうに高いことを言っていたのでホッとして歩いて行くことにする。荷物は10kgくらい。(0910発)
1210 Timang(2270m)
1450 Thanchok
1540 Koto(2600m)
1640 Chame(2670m)着
 今日の道は真っ赤なシャクナゲ、ピンクのシャクナゲが見えて、車も多くなくて楽しい道だった。欧米の人は若い人と年配の人も加わって、中国人韓国人も歩いている。日本人はこのコースでは全く会わない。
 Chameでゲストハウスの値段を聞くと、200Rsとい、もっと安くというと、150Rsという。また来ると言ってさらに上手の方へゆく。次のMoom Light Guest Houseで聞くと100Rsという。悪くないと思ったが、上手へ行って、比較してまた来るというと、また来たらその時は100Rsではないという。ま、いいかとそこに泊まることにする。
 ゲストハウスの主人にManagまでジープがあるかどうか聞くと、あるという。1,200Rsという。じゃそれでお願いと頼む。食事中に宿の主人の親戚だという男がやってきて、Manangまでジープは3,000Rsだという。いや宿の主人は1,200といったというと、西洋人(外国人)は3,000Rsでネパール人は半額なんだという。そんなこともありそうな気もするが、それじゃ乗らないと断る。
 夜、最高の星空。北に北斗七星。

3月29日(火)晴れ空気は澄んで良い天気。
0540 体調よし。朝のお祓いをする。1,200Rsでジープがあると言っていた宿の親父、車はみんな下のほうへいってManangへ行く車はないという。ならば歩くのみ。
0745 Chame(2,670m)発、Tilcheの若者が作ってくれた竹の杖を突きながら出発。
0840 Thalekh(2720m) ここで後ろから来たジープの運転手が、1,500RsでManangまで乗らないかという。1,000Rsなら乗るというと、だめだという。じゃ、いいよ歩いて行くからと、どうぞと手で合図すると、じゃ、荷台でならいいよというので、乗ることにする。0930 Lower Pisang(3,200m)
1045 Mugje(3,330) いろいろ聞くと、Tilicho Talという標高5,000mの美しい湖まで、Manangから往復3日、当初目標としたThrong Pass(トロン峠)までManangから往復5日かかるというので、Throng峠はやめにして、Tilicho湖に行くことにしました。伏見兄のおすすめでもありましたし。
1230 Manang(3540m)着
 Komal氏の友人のビナート グルン氏のHotel Yetiを訪ねました。最近Manang地区の国会議員に成られたばりばりの方で、いかにも気力充実した方です。鋭い眼差し、気力充実はどこから来ているのでしょう。Komal氏の息子さん、Naresh氏の息子さんも気力逞しいものを感じます。
 Manangの方々にはチベット文化との交流が深いことを感じます。マルシャンディ川の下流のグルンの方々と少し違った、より鋭い逞しい雰囲気を感じます。
 すぐに好みの教育論に入ってしまうのですが、彼もまた最近の子どもは弱くなったといいます。妻たちも都会が好きで、カトマンズに子どもの教育で住み始めると、もう辺境の地には帰ってこようとはしないと言います。今回のネパール旅行中たえず、今の日本と子ども、教育のあり方を考えています。
1335 Manangの道路沿いから川を越えてGangapurna Talまで行ってきました。Annapurna 3峰(7555m)とGanggapurna(7454m)から北へ下っているGanngapurna Glacierの末端にある氷河湖です。川の両端に高い氷河堤があり、トルコ石のような青
水の色です。
 明日はTilicho Base Camp(4,150m)へ行くことにします。アンナプルナ周回トレッキングルートから外れるので、ビスケット400gと水筒を買い、昼飯用に近くの茶屋でチャパティに蜂蜜を塗って貰いました。
1700 Yeti Hotel の3階のダイニングルームで夕食。
 食事を終わったら若い白人がやってきて「今日は」という。かれはドイツ人で名大の機械工学に半年留学しています。名大の日本語コースがよく指導してくれて上手くなった、今年JLPD(日本版TOEIC)を受ける。北海道は綺麗なところだと友人がいうので行きたい、このトレッキングは初めての経験ですが、ガイドを雇うのは好きではない、自由で無くなるような気がする、と私に似た好みを言います。オーストリアアルプスのハイキングにはよく行って、そこで知り合った友人と今回のトレッキングに来ています、などといいます。水準以上の日本語を話すなあと感心してしまいました。最初の段階の日本語は水準以上の丁寧さと日本的マナーもあって感心しましたが、次のステップでいろいろ自分の考えを話す段階になると、いくつか滞りが見られました。一応、外国語会話の第2段階といって、自分お考えを言い、議論する段階とすれば、この段階まで話させるようになりたいと私も思います。第3段階は、自由に議論できる段階としておきます。せめて、第2段階までレベルを上げたいと、この歳になっても思います。英語でも、ネパール語でも。
 思い返してみれば、52年前、このManangまで期待と思えど、Thonjeのチェックポストまでしか来ることができなかったのでした。今、Manangに来ています。不思議です。
2045 就寝。 

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2016年4月13日 (水)

4月13日ネパール紀行2016(4)2016年3月27日(日)Dharapani(1860m...

 

2016年3月27日(日) Dharapani(1860m)-Tilche(2300m)
0605 起床
0800 Dharapani発。Komal氏が送って下さった馬に乗って出発。Thoche(1900m)は6年前よりもさらに家が増えているように見える。懐かしいTilcheへの道を歩む。50年前に本当の真っ暗闇を経験したと思った道。道幅が広くなって、木が少なくなっている感じ。5年前に氷河学者の伏見碩二教授がやはりこの道を馬に乗ってTilcheに向かい、同じ馬と若者とDudh Khola 上流のBhimdanと氷河湖の調査を行ったそうです。4年前にTilcheまでの道路がひろくなり、2年前に大雨で崖崩れがおこり、道の景色が変わっていました。2年先には、Tilcheまでジープが通るようになるそうです。
0905 Tilche着
 Komal氏が出迎えて下さり、カタという綺麗な布を首に賭けて下さり、6年ぶりの再開をしっかり喜び合いました。
 末の妹さんがちょうどロンドンから里帰りされていて50年ぶりの再開を喜び合いました。当時、12歳そこそこの娘さんでした。ご主人が大佐で退職されてロンドン永住のおつもりのようで、ご主人共々、実家に帰っておられるとのことです。明日は、Komal氏の次男の方がカトマンズの職場のお二人とともにTilcheに帰って来られるそうです。
 50年前のときも、ある障害があって、両親が亡くなっていて、でも、家族同様に過ごしていらっしゃった娘さんは、6年前も今回も健在で一緒に生活していらっしゃいました。
 Komal氏はその後リンゴの栽培を増やしていらっしゃいます。いつかリンゴがたわわに実っていたそうです。次の日、なんとなく枝のしなだれがなくなってよく見ると枝の下にリンゴが半分になって落ちていた。村内の漁師さんにみてもらうと、たちどころにこれが熊の仕業であること、足跡も一杯残っていたそうです。さすが猟の専門家だけあって、たちどころに見立てたとのことでした。ヒマラヤにもツキノワグマのような熊がいます。
 11ヶ月前の地震で大きな石が落ちてきて、発電所が壊され、以降、通電制限があるそうです。
 去年のこと、マナスルトレッキングに88歳の日本の方がLarkyaの方に登っていったそうです。何日かして背負われて帰ってきたそうです。恥ずかしいと言われたことが印象深かったとか。なぜ恥ずかしいというか分からなかったそうです。私はよく分かります。 
 Komal氏は、マハーバ-ラタ、バガヴァッド・ギーターの経典を読み、ヒンズー教の生活をしていらっしゃいます。私も身相応に宗教生活を学んで行きたいと思います。
 明日はジープがあるかどうか分からないのですが、マナンの方に出かけようと思います。
 今日は愛山2・3区の「御田神社祭」でした。五山8時からしめ縄作り、御田神社旗幟たてをし、10時半から神主さんのお祓い、その後の直会と今年の無事豊作を祈念いたしました。

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