カテゴリー「シュタイナー・十二感覚」の40件の記事

2018年2月23日 (金)

2018年2月23日(金)味覚、聴覚面であまり劣化はないかも

 このブログ、3日にまたがって空白にならないように努力します。生きてます。元気ですと生存証明します。

 昨日は、旭川の友人ご夫妻と、美味しい天ぷら定食をいただきました。こんな美味しい天ぷら食べたことがないと大感激しました。
 自分の感覚が鈍磨してきているのではないか、少なくとも嗅覚は鈍くなっていると思っていますので、このように味覚面でこれほどおいしさを感じることが出来て喜んでいます。
 このあと、ピアノのレッスンで、先生の弾くピアノがすごく美しく、聴覚面でも劣化していないかもしれないと喜びました。耳が聞こえづらくなってはいるのですが、ピアノは綺麗でした。
   2月に入って、屋根に上がっての雪下ろし、氷落としで、危険な状態に身をおくので生命感覚が敏感になっていると思います。これまた想像的仮説ですが、生命感覚は12感覚の中でもより基本的な感覚では無いか、生命感覚を育てると、ほかの感覚も育つのではないかと思うのですが、どうでしょうか。



  

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2018年2月17日 (土)

2018年2月17日土療遊期の基本料理家事とピアノ、12感覚続き

2018年2月17日土曜日曇り 朝6時気温-15℃
 12時現在-5℃、暖かです。
 生存証明として2日に一回は投稿しようと思います。空白4日になるようなら、なんらかの説明をします。心配してみて下さって、ありがとうございます。

 最近の「療遊期」の日常は、家事料理と、ピアノです。
 ピアノは最高の療育活動と思います。記憶、図形認知、視覚・聴覚・微細運動の協同など、訓練的な価値があります。老呆化、梗塞化防止のためさらに意識してピアノに励みます。
 実は粗大運動面での努力が足りません。ラニングマシンで2km早歩きするのですが、少し負担が多い感じもあって、2日連続しかできていません。夏の登山を目指しています。

  すこしずつでも、12感覚論を学びます。

12感覚(触覚・生命感覚) 第3回シュタイナー治療教育家養成講座講義録2005年12月、講師:バーバラ・ボールドウィン通訳:冠木友紀子、監修:大村佑子

 4つの下位感覚一触覚、生命感覚、運動感覚、平衡感覚、この4つの感覚によって私たちは、肉体を通して私自身を経験することができます。
 次に4つの中位感覚。嗅覚、味覚、視覚、熱感覚。私たちを周囲の世界と結びつけてくれます。
 次に聴覚、言語感覚、思考感覚、自我感覚という上位感覚。これらの4つの感覚は、私たちを取り巻く人間の世界へつなげてくれます。つまり、それらは他者と私たちを結びつける感覚です。下位感覚と中位感覚を通しては、他者を感得することはできません。
 シュタイナーは言語感覚、思考感覚、自我感覚について述べた最初の人です。

生命感覚≫
 さて、次に生命感覚へ移りたいと思います。
 生命感覚が私たちにもたらしてくれるものはいったい何でしよう。生命感覚は私たち自身が健康か、あるいは不健康かということを教えてくれます。もし生命感覚がきちんとうまく動いていれば、私たちはそんなことを特に意識しません。妨げが生じたときに意識するようになるのです。例えばおなかが空いたとき、こんなときは生命感覚にちょっと障害が生じたというか、ちょっとトラブルが起きてるわけです。ですから何か食べなくてはと思うのです。あとは喉が乾いたとか、寒いとか暑いとか、ほかにもいろんなちょっとした生命感覚への邪魔が生じた場合もちょっと困るのです。さまざまなお医者さんが、この生命感覚をさまざまに異なる方法で説明しています。どうも矛盾しているようにも聞こえます。アルバート・ズスマンはこれを「警告、注意報を出す感覚」と言っています。私たちの存在を保障する、生存のための感覚と言っています。身体の中の水分が不足しているときとか、あまりに熱が出てしまったときなどに警告を出してくれる感覚とも言っています。
 私たちは痛みも感じます。ズスマンさんは、「私たちは、痛みを通してこそ成長し、学ぶのだ」と言っています。触覚が私たちの肉体にかかわりがあったように、生命感覚は私たちのエーテル体にかかわっています。エーテル体というのは私たちの生命力のことです。ですから生命感覚の調和がとれているとき、エーテル体も調和がとれて健康だという感じが得られ、私たちは成長することができます。健康で心地いい状態の中で成長している子どもたちもいます。でもあまりに心地いいとあまり学ばないのです。健康だという感覚はあるのですが、教室で椅子に座って、さっき食べたご飯のことを思い浮かべて、そのご飯をおなかで消化して、うん、健康だ、という感じです。
 さて、さっきとは違うタイプです。教室の中でこうやって、前のめりになって、目はしっかり前を向いて、顔も前に向けて、さあ、次には何が聞けるのかと飢えるような顔をして待ち構えている子もいます。頂戴、頂戴、頂戴……というふうに、もう学びたくて我慢がならないというふうな子もいます。その子たちはちょっとした欲求過剰による不快感を持っています。それは、「ああ、知りたい知りたい」という気持ちなんです。この子たちは、「知りたいけれど、満たされない」というちょっとした不快感があるためによく学べるのですが、それは「痛み」とも言えます。私たちの成長のためにはこの生命感覚において、「ちょっとした心地悪さと共に生きること」がとても大事です。というわけで、生命感覚は私たちに健康さ、あるいは不健康さを伝えてくれます。

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2018年2月 5日 (月)

2018年2月5日、自分の勉強のための12感覚論

 生存証明と老呆化抵抗で文章を書かせていただいています。
 おおいに私的ですが、お許し下さい。
 3日間はあかないようにするつもりです。
 

 シュタイナーの12感覚をまた読み直したいと思ったのは、老呆化、脳梗塞、ボケの状態を12感覚の面から見ておきたいと思ったからです。
 また愛山での住居が立派な造りですが、65年前の本州の農家的造りですので夏涼しく冬は寒いのです。屋内でトイレに行く旧台所は零下になります。この寒さは直接的には「熱感覚」に関わりますが、老人には命がけ的なので「生命感覚」にもつながります。
 屋根の氷落とし雪おろしが、結構危険なので、命綱を使っていますし、「生命感覚」にかかわります。12感覚的には材料豊かですし、生きがいのある家です。
 

魂の扉・12感覚 アルバート・ズスマン
石井秀治訳 耕文社 1998
 

 この本を中心に12感覚論を学びます。
 上記本を詳しく、しかし少しは簡略化して文章化したものを読み返しましたが、難しいです。我が頭の退化証明となりました。何回にも分けて残し、私の勉強とします。
(以下、適宜簡約化して引用)
 

〔生命感覚〕32p.
  ルドルフ・シュタイナーは、生命感覚によって、私たち自身の体調を知覚するのだといっています。交感・副交感神経と呼ばれているもの。空腹、乾き、 いわば体調感覚とでなづけられるもの。気分の善し悪し、疲れ、病気、など。
 生命感覚は本来的に警告システムであり、生命感覚なしには思慮分別を身につけることはできない。
 ノバーリス「人は痛みを感じることに誇りをもつべきだ。・・・・すべての痛みは、私たちにかって高い位階に合った事への追憶なのだ」
 痛みは私たちに、何かが本来的なあり方ではないことへの警告を発してくれます。私たちの身体の中を見て、これはこうあるべきだと判断する者は、・・・高位の秩序に由来する存在でなければなりません。人智学のなかでは、肉体的な人間との対比において霊人と呼ばれている。
 痛さなしには人間は決して成長しない。痛みは魂のあらゆる層にしみ入るから。
 私たちはこの世界の中の私たちの居場所を、まさに痛みを通して知っていくのです。やけど。転ぶ。私たちの小さな痛み、大きな痛みに感謝しなければならない。
 子どもたちに肉体的な疲労を感じさせることも、とても大切。生命感覚を育てるための心地よい疲労の在り方をあまり知らない。 ある授業を始める前、大きな声で詩を朗読し、そのリズムに合わせて足踏みや手拍子させる。
 生命感覚なしに、痛みや疲労なしに、何かを学ぶことができるか。学ぶということそれ自体にも、痛みが用意されている。
 時代を超えて語り継がれてきた童話は、まさに子供たちの生命感覚に向けれらている。 ハラハラドキドキの物語。。
 子供たちの生命力には、否定的な要素と肯定的な要素とがバランスよく与えられなくてはならない。
 「この子は全然泣かないのですよ、なんて可愛い子なんでしょう」→これはとても心配。
 人間は辛さや痛みを通して自らを抑制することを学びます。食事前にお祈りして待つことも大切。
 体内で何が生起しているかを伝えてくれる生命感覚は、童話がやってくるのと同じ領域、信じがたいほどの高みにある領域からやってきます。嘘かまことかのらち外にある領域から。
 皆さん、このような生命原理が見事に失われてしまっていることにお気づきでしょう。
(2018年2月5日月曜日分、ここまで)

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2018年1月17日 (水)

2018年1月17日(水)軽い脳梗塞障害をシュタイナーの12感覚論で見る

 先日、呆化とか脳梗塞の障害をシュタイナーの12感覚で見た方が良い面がありそうに思うと書きました。
 触覚、生命感覚、運動感覚、平衡感覚、嗅覚、味覚、熱感覚、視覚、聴覚、言語感覚、思考感覚、自我感覚です。

 12感覚的見方で、わたし自身の軽めの脳梗塞的障害を見ますと、
1.触覚:あまり感じません。
2.生命感覚:疲れの感覚が鈍い、空腹感覚、内臓の感覚も鈍くなっている感じがします。
3.運動感覚:体の動き、運動が鈍くなっています。
4.平衡感覚:平衡感覚が鈍いです。よろめいて歩いています。
5.嗅覚:料理の時、鈍くなっているのを感じます。
6.味覚:嗅覚と一緒になって、鈍麻を感じます。新米が美味しいと言って下さるのですが、あの新米のおいしさを以前ほど感じていません。
7.熱感覚:布団の中で温かさの感じ方が鈍いと感じます。
8.視覚:私の脳梗塞障害部位が、右目の視野右半分に出ました。退院して2ヶ月ですが、視覚の障害がすこし軽くなった感じがします。
9.聴覚:老化と脳梗塞の違いは分かりません。
10.言語感覚:言葉の感覚
11.思考感覚:思考を感じる感覚です・
12.相手の自我を感じる感覚です。
 1~4を四つの身体感覚(下位感覚)、9~12を上位感覚と言ったように思います。
 上位感覚は脳梗塞になると単なる老化よりも顕著に傷害される感じがします。
 シュタイナーの12感覚論はもう少し勉強したいです。

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2016年1月31日 (日)

2016年1月31日愛山キリギリス農場12感覚仮説

 寒い日が続いています。昨日は納屋の雪下ろしをしました。
 午後2時から5時まで、納屋の西半分、命綱をつけて、暗くなって作業を終えました。
休みなく3時間で終わったのは立派な作業量でしたが、今朝はくたびれ果てていまして、今日は仕事になりませんでした。
 納屋の西半分は高くて、落ちるとヘタすると命がけです。命綱をつけているとは言え、どんなになるやら分かりませんので、鉄地河原さんに屋根に上がることを電話しておきました。
 鉄地河原さんにお叱りを受けたのは、午後3時以降は非常に危険だと言うことです。山でも、表層雪崩にしろ、底雪崩にしろ、午後3時以降に落ちるのだそうです。
 一応、マイナス8度であることを確認して、解けて滑ることはないと思ってはいましたが、やはり気温が低くても午後3時以降はダメと言うことでした。

 この愛山の生活は、「生きている実感」が多いです。
 シュタイナーの12感覚論的には、四つの身体感覚です。

 まず、生命感覚です。屋根の雪下ろしですが、日常生活の中にも命の危険が身近にあります。納屋の西屋根と母屋の南側の雪下ろし、チェーンソーでの丸太きり、斧での薪割り、除雪機、トラクター、耕耘機など、怪我とか命に関わるような機械操作です。
 疲れも生命感覚の大きな要素です。
 おなかが減ること。 
 喉が渇くこと、
 夜の恐怖と言いたいのですが、私はあまり怖くはありません。
 痛みがあります。よくけつまずきます。これは老化のせいで、愛山の生活故ではありません。が怪我する材料は多いです。

 触覚については、夜の気配は触覚が感じます。仕事中の爽やかな風。
 運動感覚と平衡感覚は、二つとも農作業(田・畑)、除雪、薪割り。

 まず上記、身体4感覚をよく使っていると思います。
 
 これは感覚ではないのですが、「ありがたい」と感じること、思ったりすることが多くなりました。これは歳のせいかもしれないのですが、一応、愛山の生活、やや不自由な生活によるかもしれないと思います。

 「逞しく生きる」ためには生命感覚のトレーニングが必要です、というのが愛山キリギリス農場の12感覚論仮説です。

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2015年6月12日 (金)

2015年6月12日、認知症予防を12感覚的観点からトレーニングを

 先日、認知症になった女性の映画の紹介を見ました。
 老化をもっぱら病気とか体力の衰えとか身体の事が第1関心だったのですが、認知症という感覚的知的レベルでの老化・病気の方が実は身近のようです。
 出来る対策は特別なことではなく、日常的なことと思います。以前少し触れても居ますし、基本はこれまでも言い続けている対応策です。
1)身体のこと、山登り、出来れば一人で行くことも大切。
 身体のことをまず、感覚的観点からトレーニングすることが努力目標です。
 イ)触覚
 ロ)生命感覚、山登り、
 ハ)運動感覚(トライアスロン)、山登り
 ニ)平衡感覚、山登り、トライアスロン
 
 ホ)嗅覚(料理、掃除、香)、
 ヘ)味覚(料理)
 ト)温覚(暖房・風呂)
 チ)視覚(絵画・書)
 
 リ)聴覚(音楽:楽器・歌)
 ヌ)言語感覚(詩歌・文学)
 ヲ)思考感覚(哲学)
 ワ)自我感覚(社交・ダンス)

 感覚的には、12感覚的領域でトレーニングしてよろしかろう。
 はい、認知症予防に、12感覚的にトレーニングすべし。

2)家事(料理・掃除片付け)

3)勉強・仕事

4)社交・エチケット・マナー

5)芸術的活動

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2015年3月 4日 (水)

2015年3月4日木、異常気象、痛みの経験

 愛別、旭川など上川地方のほか、先日行った、深川方面も少雪でした。異常気象だと騒いだのですが、石狩方面は決して少なくないそうです。オホーツク、道東方面は暴風雪も積雪も多いようです。ですから、私が騒ぐほど異常な少雪ではないかもしれません。
  すみません。実は愛媛にいた小さい頃から、台風は好きでした。台風が去った後の倒木をワクワクしながら見ていました。打ち寄せる大波を見に行ったこともありました。
 自然の驚異を感じること、大事なことだと思いませんか。

 ついでに率直に申しますと、子どもが怪我をして大騒ぎをするのは好きではありません。
 子どもは怪我をしながら育つのだと思います。子どもの切り傷、打撲など、親としては歓迎すべきことです。自分の痛みを通して、人の痛みも感じられる面があります。

 個人的な感覚かもしれませんが、小さい頃、転んだりぶつかったりして、非常に痛い思いをして我慢している時に、だれか大人から、痛かったねなどと声をかけられると、それをきっかけに大泣きしたり、あるいは、恐ろしく腹をたてたりした記憶があります。俺の痛みを横取りするな、みたいな変なつっぱりだったように思います。自分のドジで痛んでいる悔しさもあるかもしれません。
 そうなのです。私の場合、痛みは私のものであり、横取りされたくないのです。
 だれか他の人の痛みの場合でも、その人が経験している痛みに介入したくないような気持ちがあります。
 共感力が弱いのかもしれません。
 でも、年寄りが昔のことを思い出していいますが、昔は膝に擦り傷、打撲は当たりまでしたでしょう。その痛みの当たり前が、たくましさを育てるのでしょう。
 だから、教育目標に、たくましい心を育てることをあげるのなら、おおいに痛みの経験をさせるべきなのです。
 おおいに疲れさせるのが良いのです。
 はい、新郷土教育の柱、シュタイナーの12感覚、生命感覚育成論でした。

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2015年2月20日 (金)

2015年2月20日、認知症と生命感覚

 現代病というか現代の老人の問題には認知症があり、どんどん増加しているようです。ボケと認知症の違いがあまり分かりませんが、自分がその中にいると思うと認知症予防、認知症治療(があるなら)を努力しなければならないと思います。
 子どもについても、逞しく生きる力の問題が大きくなっています。対人関係能力の未発達も同じ子どもの現代的問題であると思います。
 問題の背景は端的に言ってしまえば、シュタイナーのいう12感覚の身体4感覚、すなわち、触覚、生命感覚、運動感覚、平衡感覚の発育不全にあると考えます。とくに、生命感覚の発育不全が問題です。
 生命感覚は、ひもじい、喉が渇いた、痛い、疲れた、眠たい、などにつながる感覚です。これは汗をかく、かかないことにつながる感覚です。
 このキリギリス農場ではよく「生きている実感」を感じることができます。夜帰宅して、車を降りて車庫を出ると、月の夜、星の夜、暗い曇りの夜と様々ですが、ああ、生きていてありがたいと思います。薪割り、畑仕事などの力仕事をしていて、汗をかき、涼しい風に当たるとああ。気持ちいい、生きている実感!です。
 今の認知症老人世代が、成人、壮年期に、空腹の経験、肉体的疲れ、痛みという、生きている実感がないまま、ただ、忙しく仕事してきて、老人になったのではないかと想像します。
 「生命感覚が刺激されされない環境は認知症を生みやすい」という仮説を立ててみます。生命感覚だけでなく、身体4感覚(触覚、生命感覚、運動感覚、平衡感覚)に広げても良いかもしれません。すなわち、「身体4感覚を刺激し育てない環境は認知症を生みやすい」となります。
 この12感覚とくに生命感覚重視論はこれまでも繰り返し言っていることですが、今回は認知症との関連で検討し、山スキー単独行容認論という個人的弁明として述べました。 
 「山スキー単独行は認知症予防になる」という仮説は、さて、当たるか、当たらないか。

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2014年8月21日 (木)

2014年8月21日、老人の生命感覚、中でも疲労感覚について

 今日の午後、お疲れのご様子といわれてしまいました。
 昨夕のクロール1km40分は、気持ちは元気で、やれると思ったのですが、体は疲れていまして、表情に出ていたようです。
 体の疲れの感覚、生命感覚の1つですが、これが鈍感になっています。私の老化は疲労感覚の鈍麻にある、このことを受け入れなければなりません。
 三日間の十勝連峰縦走も、疲れがとれるまで、2週間から3週間かかりました。田畑の仕事、家事は続けてはいました。
 結局、この夏、気がついたことは、私の老化は、生命感覚のなかの疲労感覚の鈍麻、それともう一つ、山での行動が、見積もった行動時間の1.3倍から1.5倍かかった、ということでした。
 恥ずかしながら付け加えますと、一度、下りで転倒したのは、午後4時頃でした。農作業でよく言っていた「魔の第4ラウンド」でした。
 こうやって気がついていても、実際には、そのときに起きてしまうでしょう。

 この現実を受け入れつつ、絶えず運動はし続けます。
  このようなお話を、片や、60歳を過ぎてサッカーに打ち込んでいらっしゃる方と、共感し合いました。
 運動をやめてしまうと、老化斜度の急降下を見るだろう、可能な限りぎりぎり頑張りつづけようという考えを共有しました。

 夕方、花咲公園駐車場から、マラソンコース10kmを自転車で走り、折り返し点に小さな標識を立ててきました。
 考えてみれば、最初の水泳が終わった後、2番目の自転車で比布大橋まで行くときに、立ててもよかったのでした。次回はそのようにします。

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2014年1月 9日 (木)

2014年1月9日、キャンプヒルに方は無報酬なのでしょうか

 「シュタイナーのバイオダイナミックとキャンプヒルを目標においたのですが、とても及びません。」と書いて、シュタイナー農場の看板を下ろしたのですが、二つの目標は考え続けていきたいですし、日本的な在り方が何処かにあるだろうと思っています。少しずつ意識していきたいと思っています。

 久し振りに、サー・ローレンス・フォン・デア・ポスト編著「キャンドル・オン・ザ・ヒル 丘の上の灯火」、飛鳥新社、平成14年に出ているカール・ケーニッヒの「キャンプヒルの本質」を読みました。
(36ページから引用)
 キャンプヒルを慌しく訪れ、表面的に見る人々は、しばしば、私たちの生き方を早合点して捉えます。共働者が誰一人賃金や報酬を受け取らないのは、経済面での取り決めではなく、ハンディキャップを持つ人々にとっての正しい環境を作ろうとする社会的な努力の一部分なのです。
 もし、私たちが雇われて給料を受け取る身であったら、今のようなことはできないだろうとはっきり言えます。給料を支払われたことで、その活動は社会的な価値を失うからです。専門職を持つ人も自分の奉仕に対しては支払われません。支払われたとたんに、それは奉仕ではなくなるからです。賃金はお金でなくても、それを支払う人と受け取る人の間に柵を作ります。互いに与え、受け取るのは、人間関係として当然ですが、賃金が支払われたとたんに、真の人間関係が失われてしまいます。支払われた奉仕はもはや奉仕ではなく、支払われた愛も愛ではなく、支払われた支援は支援とはとても言えません。
 奉仕と社会的な環境の間にある、優しいつながりが理解できるようになると、ハンディキャップを持つ人々のための教育とコミュニティに一筋の新しい光が差し込みます。活動が社会的に成功するのは給料が含まれないときだけです。支払いは別の形でなされるべきです。奉仕が自由に行われるのと同じように、支払いも自由に行われてよいのです。
 経済に関しては、真の兄弟愛がなければなりません。兄弟愛の中では、みんなが平等であると同時に、各々の基準が認められます。誰もが他の兄弟姉妹と同じ条件で生きているわけではありません。必要とするものは人それぞれ違います。とはいうものの、金銭の要不要にかかわらず、人が兄弟のように愛し合うことを学ぶ必要があることに変わりはありません。
(引用ここまで)

 この精神ですと、キャンプヒルの方々は無報酬なのでしょうか。おいおい学んで行きたいと思います。

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